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中原 親能


なかはら   ちかよし
中原 親能​ (1143​~1208年) 

 

中原親能 

 

出自については諸説ありますが、大江広元と同じく、儒学を専門とする京都の下級貴族・中原広季(ひろすえ)の養子であったとされています。幼少期を相模国で過ごし、同国の有力武士・波多野氏の婿になりました。そのため流人時代の源頼朝と知り合いで、頼朝の挙兵に際し京都の人々の中でいち早く駆けつけています。京都との人脈を持っていたことから、度々上洛し、鎌倉と京都の連絡役として活躍しました。また親能の妻は頼朝と政子の娘・三幡(さんまん)の乳母で、親能自身も目をかけていました。しかし、三幡を天皇に入内させる計画が進められている中、頼朝が亡くなり、その半年後に三幡も14歳の若さで世を去ります。親能は出家し、自らの屋敷があった亀谷の堂の傍らに葬ったと伝わります。

 

ゆかりの地

 

大倉幕府跡​
大倉幕府跡

鎌倉市雪ノ下3丁目

 

 

 

 

 

 

▼そのほかの重臣たち
北条 義時
北条義時

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安達 盛長
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