かまくらぐう
【日本遺産004】
1869(明治2)年、
明治天皇の勅命によって創建された神社で
御祭神である
大塔宮・護良親王御最期を迎えられた
鎌倉二階堂の地に建てられました。
護良親王は後醍醐天皇の皇子であり
鎌倉幕府打倒の立役者として活躍し
その功績により1333(元弘3)年に
征夷大将軍に任じられました。
ところが1334(建武元)年、
足利尊氏との対立から
鎌倉二階堂の東光寺に幽閉の身となり
翌1335(建武2)年7月
北条時行が鎌倉を攻めた
中先代の乱による混乱の中で
鎌倉から敗走する
足利直義(尊氏弟)の手により暗殺され
28歳の若さで非業の御最期を迎えました。
1873(明治6)年、
鎌倉宮に参拝された明治天皇は
皇居に戻られた後、
自分は周囲の助力により
明治維新を成し遂げることが出来たが、
護良親王の御奮闘と御最期を思い出す度に
涙を抑えることが出来ない。
親王の英姿を広く永く伝えたい。
と太政大臣三条実美公にお話しになり、
鎌倉宮を官幣中社(※1)に列しました。
その時のお言葉は今も、
境内の「鎌倉宮碑」に残されています。
御社殿の奥には、親王幽閉の地と伝わる、
幅・深さともに約4メートルの岩窟があり、
宝物殿には親王ゆかりの品々が
所蔵されています。
また、摂社村上社前には
親王の身代わりとなった
村上彦四郎義光の木造があり
「身代わりさま」と呼ばれ親しまれています。
1959(昭和34)年から
毎秋行われている「鎌倉薪能」は、
夜の境内で篝火を灯して行われる
鎌倉の秋を彩る風物詩です。
『鎌倉夫人』『冬のかたみに』などで知られる
作家の立原正秋は
これを題材に『薪能』を著すなど
文士の創作の舞台となりました。
また、鎌倉宮には盃割り舎があります。
盃にと息を吹きつけて、
自分についた悪いものを移し
「厄割り石」に投げつけて割ると
厄を払うことができるとされています。
※1 旧社格の一つ
鎌倉宮<外部リンク>(googleマップを開く<外部リンク>)
《祭事》
草鹿神事
鎌倉宮例大祭
鎌倉薪能(鎌倉市観光協会主催)