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鎌倉十橋

かまくらじっきょう

 

 

鎌倉を流れる滑川などに架かる橋の中で、古くから重要な交通路にあった橋や、伝説の伝わる十の橋のことです。江戸時代には鎌倉名数の一つとして観光用に「鎌倉十橋(かまくらじっきょう)」といわれるようになりましたが、現在は橋としては残っておらず、碑だけが残っているところもあります。

 

 

うたのはし
歌の橋

歌ノ橋
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金沢街道を杉本寺から150メートル程西に行った所、二階堂川が滑川に流入する辺りに架かる橋。1213年(建保元年)、渋川刑部六郎兼守が謀反の罪で捕らえられたとき、無実を訴えるために和歌十首を詠み、荏柄天神社に奉納しました。歌人としても知られる当時の将軍源実朝はその和歌を見て感動し、その罪を許したため、兼守は死刑を免れました。そのお礼にと荏柄天神社の参道近くにこの橋を架けたので、この名がついたと言われています。

 

 

えびすどうばし
夷堂橋

夷堂橋
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夷堂橋は、本覚寺門前を流れる滑川に架かる橋で、その名は本覚寺の仁王門前あたりにあったとされる夷堂に由来します。夷堂は源頼朝が御所の裏鬼門に夷神をまつった夷三郎社が始まりで、滑川もこのあたりでは夷堂川とも呼ばれていました。現在夷堂は本覚寺の境内にあります。

 

 

かつのはし
勝ノ橋

画像なし
▶現存していません<外部リンク>(石碑のみ)

寿福寺の門前にあり、英勝寺を開基した英勝院尼お勝の方が架けたので、勝ノ橋と呼ばれていたとされています。お勝の方は、江戸を開いた太田道灌の子孫太田康資の娘で、徳川家康の側室でした。明治の末ごろまでは中央が盛り上がった立派な橋が架かっていましたが、今は庚申塔の横に石碑と敷石一枚が立ててあるだけで、この他の石材は英勝寺の庭園内に置かれています。

 

 

さいきょばし
裁許橋

裁許橋
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御成小学校近く「門柱所旧蹟」の石碑の南側、今小路を横断して流れる佐助川に架かる橋です。現在の裁判所にあたる門柱所が近くにあり、訴訟を裁許したことから名付けられたと言われており、橋の南方には飢渇畠と呼ばれた刑場跡と伝えられる所もあります。また、鎌倉時代の僧侶で歌人であった西行法師が、この橋の上で頼朝に名を問いただされたとか、西行がこの橋の近くをよく通っていたということから、別名「西行橋」とも言われています。

 

 

さかがわばし
逆川橋

逆川橋
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大町四ツ角の近くにある橋で「さかさがわばし」とも言われます。逆川は、名越から南へ流れる川筋が屈曲して北上し、川の流れが逆行しているように見えるので逆川と呼び、ちょうど逆行する辺りに架けられている橋なのでこのように呼ばれています。

 

 

じゅうおうどうばし
十王堂橋​

十王堂橋
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北鎌倉駅前から鎌倉街道を大船方面に150メートルほど行ったところにある橋。特に目立つこともない石の橋ですが、昔は橋の側に閻魔など十王を祀った十王堂があったそうです。円覚寺の桂昌庵の十王はここから移されたといわれています。

 

 

すじかえばし
筋違橋〔筋替橋〕

筋違橋
▶現存していません<外部リンク>(石碑のみ)

宝戒寺からバス道路を横浜国立大学付属鎌倉小中学校の方へ100メートルほど行った「横浜国大付属小学校入口交差点」あたりにあった橋で、昔は「須地賀江橋」とも書かれました。金沢街道(六浦道)に対して橋が「斜め」にかけられていたことから、筋違橋〔筋替橋〕と名が付いたといわれています。現在では暗渠となり、史跡案内の石碑のみが立っています。

 

 

はりすりばし
針磨橋​

はりすりばし
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江ノ電「極楽寺駅」から稲村ケ崎の方へ向かう道の途中にある橋。橋のそばに名前の由来が記された案内板が立っていますが、うっかりすると見落としそうな橋です。その名の由来は、昔この付近に、針を磨く老婆が住んでいたことからと言われています。また、我入道橋(がにゅうどうばし)とも言い、極楽寺の塔頭に住んでいた我入道というお坊さんが針を磨いていたことに由来するとされています。

 

 

びわばし
琵琶橋​

琵琶橋
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若宮大路、下馬四ツ角から海に向かっていった左側の歩道にある佐助川に架かる橋。江戸時代、若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間の道筋には弁財天を祀った祠があり、そのために道が曲がっていたため、弁財天を鶴岡八幡宮の池のそばに移し、道をまっすぐに直しました。その後、この道を弁財天が持っていた琵琶にちなんで「琵琶小路」と呼んだようで、この道に架かる橋なので、「琵琶橋」の名が付いたと考えられています。1955年(昭和30年)頃までは、擬宝珠のついた朱塗りの橋でしたが、その後コンクリートの橋になり、1992年(平成4年)、若宮大路の歩道拡張に伴い、かつての琵琶橋のイメージした御影石の新しい橋が再建されました。

 

 

みだればし
乱橋​

乱橋
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妙長寺を出て海岸方面に少し行ったところにある長さ1メートルばかりの橋で「濫橋」とも書きます。材木座の北東から西へ流れる滑川に注いでいる小川にかかる石橋です。橋が短いうえに道路とともに舗装されているので、うっかりすると見落としてしまいそうですが、橋のたもとに建てられている史跡案内の石碑が目じるしです。
橋の名の由来は、新田義貞の軍勢が鎌倉へ攻め入ったとき、幕府の防御線がこの橋のあたりで崩れて乱れ始めたので、乱橋と呼ぶようになったと一般的には言われていますが、『吾妻鏡』には新田義貞の鎌倉攻めより前の1248年(宝治2年)に濫橋の名が出ており、滑川の支流の氾濫が由来ともいわれます。

 

 

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