ほっけどうあと(みなもとのよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)
【日本遺産032】
鎌倉幕府の創始者である源頼朝と
第2代執権北条義時の供養のための堂(法華堂)跡を中心とした史跡です。
法華堂とは、武家がその祖先をまつるために
法華経にちなんで建てるお堂ですが、
頼朝と義時の法華堂はその代表で、
武家政権の創始者を供養する場として大切にされました。
始まりは、1189(文治5)年に頼朝が聖観音像を本尊として
建てた持仏堂(念持仏または祖先の位牌を安置する堂)と考えられています。
文覚上人に命じて京都で描かせた阿弥陀三尊像が掛けられ、
また、源氏重代(代々伝えられたという意味)の太刀も
持仏堂に納められていたといいます。
頼朝は1199(正治元)年に落馬が原因で53歳で亡くなりますが、
その後、この持仏堂で供養が行われたと考えられ、
持仏堂は「法華堂」と呼ばれるようになったとされています。
鎌倉幕府における北条氏の独裁体制を確立することになった
1247(宝治元)年の宝治合戦では、
三浦一族約500名が法華堂で自害したといいます。
法華堂跡の碑から石段を登った高台に江戸時代につくられた層塔があります。
現在は、そこが頼朝の墓とされています。
明治時代になると、神仏分離政策により法華堂は廃され、
頼朝をまつる白旗神社が造られました。
2005(平成17)年、法華堂跡の東隣の山から、
北条義時のものと考えられる堂跡が見つかりました。
現在はそれも含めた広い範囲が国の史跡に指定されています。
【法華堂跡】
国指定史跡
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